更新日:2020年04月08日
ポスト資本主義社会とは、ピータードラッカーが提唱した未来の社会の形です。この中では、 資本主義の次に来るのは「知識社会」だということが言われています。
■20世紀は資本家と労働者の闘いの世紀でした。そして資本家が搾取するという構図が行われてきました。そのため、共産主義が良いのか、社会主義が良いのかといった議論も生まれました。その中でも、資本主義の思想が消えることはありませんでした。20世紀の資本家と労働者の頃と違い、21世紀の資本主義は、年金機構などの機関投資家と呼べるようなところに、資本がいちばん蓄積をしています。資本も共有されているともいえます。これは過去にあった「資本家」対「労働者」による搾取の構図とはまた違います。なぜならば、年金などは労働者の社会保障を目的に作られているからです。この構図ですが、そもそも資本を集めたはいいが、次に投資する先がないという状況に、今後陥る可能性があります。現状、まだ発展途上国もかなりの数あります。発展途上国は「モノ」が足りない状況なので、インフラなど成長を期待して、これまで通りそこに投資をすることは可能です。けれど普通に考えると投資対象の発展途上国は、いつの日か先進国になります。日本で言われている買いたいものがない状況であったり、経済成長が見込めない状況が起こってくることもあります。「モノ」に対して投資できない時がやってきまうす。そうなってくると、現在の先進国で起こっているような、例えば、「GAFA」のような「知識」を強みにする企業の価値が上がり、それに先導されて、アメリカのGDPが伸びているように、日本のような「モノ」作りで成長するのではなく、「知識」で成長するパターンになってくると考えます。「知識」を集められるところが投資先になり、「モノ」を作るような昔の日本の形とは違う新しい形です。
■日本に関して言えば、労働生産性が上がっているに、賃金があがらず。人口が減少していることによって、人手不足になっていますが、雇用があがっているわけではないということです。
これは、機械と人間が仕事を争っていることに起因するではないかと思われます。例えば、これまでの歴史であれば、機械化された産業があったとします。そこで必要でなくなった労働者は、次の新しい産業へと転換されて行きました。その繰り返しで拡大再生産が行われていきました。
ところが現在では、その新しい産業がなかなか出てこなかったりします。肉体労働の現場は、ロボット化されなくなっています。1960年頃からは、人間にとっての最後の仕事と考えられる「事務管理」「生産管理」「セールスマーケティング」「技術開発」などのソフト的な労働に移ってきました。いわゆる「ワイトカラー」と「ブルー」という時に、「ホワイトカラー」ばかりになってきました。しかし、これですら今は「AI」相手によってなくなってきています。銀行などでは、管理部門がどんどん人員削減されています。肉体労働の話で言えば、1982年から2002年の間に鉄鋼の生産量は、7500万トンから12000万トンに増加したそうです。けれど、鉄鋼業に従事する労働者は、28万9000人から7万4000人へと減少しました。「モノ」作りは技術が確立すると、機械ができてしまうので、人間はもっともっと「知識生産」にシフトしていかなければいけなくなります。NPO法人などの出現もそうですが、これからは、資本を蓄積する中心的組織であった会社という概念が、どんどん崩れていくと思います。会社というものがどんどんコミュニティのような形になり、コミュニティでの人と人との結びつきによって、人が思考して生み出す「クリエイティブ」そのものの価値が、大切な時代なってくると考えます。NPO法人といった形態は、それを先取りして体現した形なのではないでしょうか。
■資本を貨幣で蓄積する貨幣経済には、問題点もあります。資本のやり取りを媒介していた貨幣経済の習慣が定着しているので、どうしても貨幣に対する依存が発生しています。例えば、貨幣経済の前は物々交換に近いような形態を取っていたわけですが、いまはそのような習慣がないので、どうしても貨幣に頼って、それを蓄積しようと思います。貨幣の数字をあげることが、価値を持っているといった習慣になってしまっています。この貨幣というのは 、次のような機能があります。
1.価値尺度や価値基準(数値化できるため価格の基準、計算のための基準となる。)。
2.交換や流通の手段。
3.価値貯蔵手段。
このことによって仕事の分業が促進され、文明は大きく進化してきました。
このお金も、昔はそこまでプレゼンスが高くなかったと考えられてます。それは、昔は神様だったり、王様だったりといったものに、人は重きを置いていたからです。哲学の世界でも、宗教と科学を分離するにはかなりの時間がかかりました。そんな中で、お金のプレゼンスが上がってきたのは、産業革命以降と考えられています。この辺りから、様々なイノベーションが起き、革命が起こり、自由平等といった考え方が広まり、いちばんは個人が自分の人生を自由に選択できることを、理想にするようになってきたことです。中世であれば、それがキリスト協会に縛られたり、王様に縛られたりしてきました。以前は、貴族といった身分が大事にされていましたが、産業革命によって、農業から工業へと生活が変わっていく中で、労働の対価としてお金が支払われるようになり、プレゼンスが上がり、資本主義というものが発展していきました。しかし、本来お金はその価値を保存したり、交換したりするような価値を運ぶ手段であったにも関わらず、お金がお金を貸した時に、「貸し賃」受け取るようになりました。「利子」を取るようになりました。その方が、楽にお金が増えるので、手段であったお金が目的となっていきました。そうすることによって、「実体経済」と「マネー経済」のようなものが生まれてきてしまいました。「マネー経済」で生み出したお金も、お金はお金ですので、実体経済にも影響を及ぼします。そうすることで様々なデメリットもう産まれてきてしまいます。しかも、「マネー経済」の方が、リターンが大きいという研究結果も出ています。
■「モノ」が必要ないという場合になったら、どのような考えを人がするのか考えてみました。先進国では、何百年にも渡って資本の蓄積があるため、多くの必要なものが揃っています。人間の欲求は無限だと言われていますが、「モノ」に関しては、全てとはいいませんがある程度、限界が来ているのではないでしょうか?いまの時代は欲しい「モノ」の想像が、できない時代になっていると思います。欲しいという発想は、誰かが持っているといった既に分かっている「モノ」への憧れから、欲求が出てくると思います。それが、誰かが持っているものは、既に私もほとんど持っているという時代になってしまっているように感じます。生活保護で必需品とされるものは、ほとんどの家が揃っています。そのライフスタイルは、既に何世代か再生産をしているので、ほとんどの家庭でそのような生活いそのための「モノ」があるということです。中古市場も活発です。中古市場が活発になるということは、それだけものがあふれているということです。逆に、中古市場は枯渇する可能性があるという話を聞きました。なぜかというと、皆が「モノ」がありすぎて、新しい「モノ」を買わないからだそうです。いまの消費スタイルは、「モノ」から「コト」へ変化していると言われています。飲食店であっても食べてなくなる「コト」という体験が重要であったり、旅行のように違う場所を体験する「コト」が商品のになったりしています。洋服のような「モノ」であっても、中古市場で買うことも出来ますし、シェアリングエコノミーの隆盛によって、借りることもできる時代になりました。
■いまでも人間はお金にこだわります。貨幣機能が、「安心を担保」するためのものになっているからでしょう。元々お金とは「価値の判断」であったり、「価値を保存」したり、「価値を交換」したりして相手に対して、感謝を伝えるものであったと思います。けれど、その保存機能が発達しすぎて、特に日本では「安心を担保」するものになりすぎてしまったのではないでしょうか?しかし、本当にお金があれば「安心が担保」できるのでしょうか。これから、全ての「モノ」が揃っている社会になれば、「安心の担保」はお金でしなくなるかもしれません。お金は「実体経済」と「マネー経済」のように、お金がお金を生み、お金がお金を作り出す経済の仕組みを作ってしまったために、本当に「価値」が重要とされる世界では、陳腐化してしまうかもしれません。その価値はというのは、人との繋がりであるといったような、本来人間が持っていた本質的なものに入れ替わるかもしれません。視点をずらして考えると、この問題の大事な点は、「お金」の話ではなくて、「安心を担保」できるものがあれば、人はよいのではないかということです。それが、いま「安心を担保」できるものが「お金」と思い込んでしまっているので、安定的にお金が入る公務員が人気職種となっているだけではないかと思います。仮に、安心というものが、全ての欲しい「モノ」がある現代において、保険などの安心を買うサービスも含めた「モノ」を買えるということではないのではないかと思います。
相対的貧困ということが問題にされているように、比較することによって「モノ」がないということはあり得ます。ただ先進国といわれる国には、基本的には「モノ」が既にあるので、本当に必要最低限の「モノ」が購入できれば、生活ができるのではないかと思います。その「モノ」自体も、安価になっていて、本当にお金がかからず生活できるとも考えます。大きな出費を考えるのであれば、5大出費といわれている「住宅の購入」「保険の購入」「車の購入」「教育費」「冠婚葬祭費」のコストを下げられれば、ある程度、お金のかからない生活ができるのではないかと考えます。
■最低限の「安心が担保」さえできれば、人はお金に縛られなくなるので、「自由」になれます。自由には様々な自由があるので、ここでいう「自由」は、時間からの解放を大きな要因として指します。例えば、仕事であっても、ただ「お金」を稼ぐためのにやりたくない労働であれば、そこから解放され、本当にやりたい自発的な労働が行われれば自由です。そのためのいちばん手っ取り早いやり方は、自分で会社をつくるような方法かもしれません。けれど、会社を作るということは不安定になる可能性もあります。「安心が担保」出来ない状態です。最低限の「安心が担保」できていれば、経済的に時間がとれつようなって、時間からの自由を手に入れられると考えます。「安心を担保」するためには、お金にだけ依存するのは危険だと考えます。お金に依存しないためには、「価値」を色々なところから、インカムする状態にしてポートフォリオを作るということが大切なのだと思います。買いたい「モノ」が世界はは、高度経済成長はしないので、その環境を持続させる「サステナビリティ」が大事になってくると考えます。多くの「モノ」があるので、「モノ」の大量消費よりも、インテリジェンスといったものが必要です。ドラッカーの言うところの「知識社会」です。インテリジェンスはお金をで取得もできると思いますが、お金がなくても取得でものです。そうするとインテリジェンスをお金に換算するのでなく、「知識そのもの」が価値となると思います。そのような価値判断になると、数字上のアップを目指す経済成長ではなくて、社会を循環させるというサステナビリティが大事になってくると考えます。
ポスト資本主義といわれる新しい、経済の概念を考える上で、「価値」というものを再度考えなければいけないと思います。「知識社会」とは何かを再度考える必要があると思います。多くの人が、価値を考える時に、「1円よりは10円」、「1000円よりは10000円」の方が価値があると考えると思います。これは、お金の概念に縛られていて、貨幣経済に妄信的ではないかと思います。これから、お金で図れない価値がきれいごろではなく、実質的に重要な時代になると思います。「モノ」から「コト」へと叫ばれて久しいですが、これは「知識社会」になっているということだと思います。ひとつ提示できればと思うことは、「価値」は人によって違うということです。資本主義はお金という尺度で、統一的な「価値」を生み出していましたが、本来の「価値」は十人十色だと考えます。「経験」にかお金を払うライフスタイルになってきています。なぜかというと、買いたい「モノ」がないからです。生活に必要な「モノ」が生まれた時からある生活を行っていて、社会にそれが蓄積されてしまっているので、戦後直ぐのように「モノ」が必要ありません。中古市場の活況などは、社会に「モノ」の蓄積があるからできることです。そのような社会ということは、大量に資本を投入しても大きく経済は成長しない社会ということになります。
■資本主義では、経済を成長させなければいけませんが、ネットサービスがそうであるように、単純なサービスはすぐに価格を「ゼロ」にできたり、下げたりすることができます。「資本主義」も「社会主義」も、経済成長が無限に続くということがベースにあります。けれど、経済が成長しないということが実際にあり得ます。そのような社会になった時に、必要となる考え方は、「サステナビリティ」や「共生の社会」ということにではないかと考えます。そのような新しい「価値」を享受できる社会システムが、「ポスト資本主義」ではないかと考えます。「ポスト資本主義」は、ベーシックインカムの議論と共に語られることもあると思います。
ベーシックインカムと同時に語られて面白いのは、ベーシックインカムがあれば全ての人が起業家になれるということです。「資本主義」を是正するためには、労働者をなくせばいいという議論にも飛躍できるかもしれません。そうすると、雇われる生活はなくなります。「雇われる側」もベーシックインカムがあれば、辞めたい時にやめられますし、会社側もう辞めさせやすい環境が整います。そのような環境では、本当に良い仕事であったり、本当にやりがいのある仕事であったりでないと、淘汰されてきます。食べるための仕事をしなくてよくなるということです。そのような共生の社会は、ポスト資本主義になっていくのではないかと考えられます。「資本主義」というのは、小さな資本をどれだけ大きくするかという原理で働いています。そのためにイノベーションが起こりやすく、高品質な商品を手に入れることができるようになったと考えます。このような仕組み自体は、否定するものはありません。お金を貸してお金をもらえるという制度は、利用する価値は大いにあると思います。懸念することとして、お金がないと暮らしていけない世界になっているのが、資本主義です。その部分が、本来の人としての尊厳を奪っている可能性があります。
■ポスト資本主義社会は、仮想通貨を体験すると感じますが、お金もデバイス上に表示される「文字情報」しかありません。インターネットで様々なサービスが出ていますが、これから色々な価値の交換を、インターネットを利用することで、お金を介さずにできる可能性があります。そうすると、お金という資本よりも、価値が重要な世界なってこれないでしょうか。その価値というのは、特に「モノ」が必要とされない世界では、「情報」ということになります。これだけ、「モノ」があふれている世界では、「モノ」自体も本当にその人が必要としている「モノ」に価値が発生します。「モノ」もただあればよいわけではなく、必要な人に必要な時にあるといった情報とのリンクが必要になると考えます。「IT」は、そのお金に換算できない「価値」を見える化するのに適した手段ではないかと思います。現在、世界では「政治経済」と言う相反する両輪を社会がまわしていると考えます。「経済」は、お金儲けをしたい人が、もっと儲かるように、もっとイノベーションが起こるようにという思想があります。逆に「政治」は、お金が儲からない人であっても、平等に「人権」を保障することや「生活の最低限を担保」して、全員が納得できる意思決定を目指すためにできているいえます。なので、これまでは相反する部分が発生し、お互いが均衡を保つための仕組みのとして機能してきたと思います。しかし、ソーシャルビジネスなどもそうですが、経済の仕組みをしながら、貧困をなくすような考え方をできる時代になってきました。このようなことを考えると、それは両方を少し角度を変えて見ると同じものとしてとらえているのではないでしょうか。その際の共通の言語が、「お金」ではなく「価値」という基準にすることによって、同じ尺度で見れるようになるのではないかと考えます。経済もパイが決まっている以上、自社の製品が買えない人たちを、買えるように貧困から引き上げることは自社の売り上げが伸びるということになります。この価値という概念で考えると、経済と貧困解決などの政治問題は実は同じフィールドで結びつくのではないかと考えます。極端なことをいえば、いくらお金を持っている人であっても、そのお金で働きたい人や、サービスを提供したい人がいなければ、そのお金の価値は全くないということです。分けるは「分かる」ということで、細分化することによって人は、理解を深めようとします。けれど、政治経済の両方とも、同じ人が行っていることなので、本質的には同じことではないかと考えます。
■「価値」というのは社会に必要とされるものを、提供できるかということになります。これだけ「モノ」があふれて社会になると、それは想像ということと近い関係にあると思います。本当に必要とされる「コト」を想像できる人が、価値をもたらすのではないでしょうか。テクノロジーは、社会を便利(楽な生活)にに変えていくものですが、将来的にはそのテクノロジーが社会問題を解決するようなタームに入っていくのではないかと思います。「卵が先か、鶏が先か」というようなフェイズを行き来しながら、時代はこれまでも進化してきたと考えます。バイオマス発電といった環境に良い電力があったとしても、コストの問題があれば、通常の経営者は経済原理に基づいて、それ以外の安価なエネルギーを使うと思います。けれど、個人の場合は少し勝手が違うと思います。電力であってもグリーンエネルギーを使うことを大切にしたい人にとって、毎月の電気代が数千円程度の価格上昇であればポリシーに則って、享受するのではないかと思います。マイクロメリットとでもいえるのかと思います。ただ、このようなポリシー的なものは十人十色なので、グリーンエネルギーで良いことをしている、みんな使うべきという議論の流れにすると少し本質がずれてくると思います。
■ベーシックインカムがあれば、貧しいという概念と決別することができるかもしれません。先進国では、絶対的貧困はほぼありません。問題となっているのは、相対的貧困です。比較があるから貧しいということが、起こっています。生活に必要な最低限のものがあれば、「生きるため」に労働をしたり、「見栄を張る」ために労働しなくなるのではないでしょうか?本当に行いたい仕事を行うため、その仕事に対する「考え方」や「思い」などが重要になってきます。購買という活動もそうなってくると思います。資本を貯める(貯金)必要が低下するため、「モノ」に執着することがなくなると思います。年金を需給されている方が、NPO法人を主催されている方が多いように、ベーシックインカムがあれば、非営利事業を起業するといったハードルも下がると思います。更には、「ボランティア(本来自発的という意味)」な行動に対して、積極的になることができます。これこそが「ポスト資本主義」での「仕事」になるのではないかと考えます。新自由主義に的な資本主義では、生まれた時点で貧富の差が生まれます。なぜかと言うと教育格差が経済の格差によってできてしまっているからです。貧富の差と犯罪などの指標は、相関関係があるといった統計もありのは事実です。ベーシックインカムを基礎として、各人のオリジナリティを発揮できる「創造」というところの「価値」が大切にされ、資本という数字だけを追い求めない世界を創ることができれば、ポスト資本主義といわれる「知識社会」を作ることになると考えます。
■身近にあるお金に換算できない価値を考えてみます。株式などの配当は、マネー経済の権化かもしれませんが、必要最低限の生活をするために、小額の配当を受け取れるようにしておいて、それで最低限の生活ができれば、それ以外は「生きるために働く」必要がなくなるので、本当にやりたいことが出来るといったメリットを享受できるのではないでしょうか。その他にも、本来人間の持っていた地域や人と人との関わりという「価値」ものがあります。人と人との関わりが強い田舎が嫌いで都会に出てくる方もいらっしゃるので、過度なコミュニケーションは面倒になることがありますが、その人と人とのつながりの中から、仕事が発生したり、生活を助けてもらったりということがあります。その良い部分を享受したやり方で、人と人とが関われるようになると、良いと考えます。そこには「IT」を活用して、ソーシャルなコミュニケーションを利用することも、ひとつの手段だと思います。最低限の生活を担保する方法は、配当問いった資本主義のシステムを使うことで、享受するのが現実的ではないかと考えています。ただ、その金額を極限まで減らして、その他の資本主義以前の本来の人の営み、というシステムも活用できるのではないかとと思います。例えば、森林があれば、ただで木材を仕入れて燃料にできます。農業であれば、売り物にはならないが、味は同じ形が悪いだけの野菜は、タダ同然で仕入れて売ることのできるかもしれません。山の中の葉っぱを集めて都会に売ると、それが料亭などで出される食材の飾りとして重宝されて、収入になっているという農村もあります。このようなものは、ビジネスの視点から考えたら、価値のない「ゼロ」のものでした。けれどそれが価値のあるものに変わることがあります。そういうものは、時間があれば、非生産的でも人が動けるわけです。ビジネス用語で説明するならば、機会損失の損失した部分を、有効活用しているということになります。それを出来るようにするポイントは、時間があるということです。都会には本来人間が自然から享受してきたような、一次産業的なものはありません。人しかいないために、一次産業的なものがないのです。少し地方に行けば(大都市でも)、そのようなもの享受して最低限の金額で、豊かな生活をできるのではないかと思います。そすれば、最低限のお金だけでやっていけます。このような資本主義を活用したものと、サブシステムを活用したものがを併走させると、国家に頼らない、民間におけるセーフティーネットを張ったゆとりのある生活ができるのではないかと思います。
■もっと色々なことをしたい。お金を稼ぎたい。お金を使ってイノベーションを起こしたいという人には、資本主義はとてもいいシステムなので、それを否定することはしてはいけないと思います。「モノ」を作るという部分では、よくできたシステムです。ただ、人はそれが苦手な人もいます。そういう人たちには、最低限の生活を担保する仕組みを作っておいて、お金とは関係ないところでも自分のやりたいことを、自由にできる時間を作るという世界はひとつの方向で、魅力的だと思います。その中で、資本主義のお金を貸したらその貸し賃がはいるというシステムと、先ほど述べたような、一次産業的なものも享受できるようなシステムを併用することによって、お金だけに頼らないインカムのポートフォリオが構築できて、「安心を担保」できるのではないかと考えます。いちばん大切なことは、お金に依存しない仕組みということになります。お金に依存しているがために、お金を稼ぐことだけに頭が働きます。これから「IT」の台頭などにより、お金だけが「価値」を保存できるとは限りません。「IT」というツールは、お金以外の方法も、数値化できるようになってきました。お金だけがあれば、安心というような世界ではなくなるかもしれません。お金を稼ぐ場所は、多くの人にとって仕事だと思います。お金があれば安心につながりますが、お金以外でも安心につなげられるとということです。その安心という目的を達成するために、手段が色々と出来てくるということになると思います。お金以外の安心がある世界におけるよい問いは、「その仕事、お金をもらえなくても続けますか?」ということがあげられると思います。
■元来、人が住んでいた里山には資源がありました。日本は資源がない国家と言われていますが、おいしい水があり、新鮮な野菜や魚といった食料もあり、山からは燃料も取れました。そして少ないですが、戦前まではそこから取ってきたものを販売して、現金収入もありいました。生きていくために必要な最低限のものは、里山にあったということです。「地産地消」ができていたということになります。しかし戦後、アメリカ型の資本主義が入ってくることによって、もっと数値化された資本に依存するようになりました。お金に依存する社会になっていきました。余談ですが、そのような状況でも日本は戦国策として、森林を豊かに構えてきました。その資源を使うことでエネルギーを得ることもできます。今でも里山から「地産地消」で現金収入を得ることができます。里山にある木材という豊かな資源や、豊かな土壌を農業を活性化することによって生きていくうえで、必要なものの多くを受け取ることができます。その他にも、お金だけにとらわれない時間であったり、自然でといったものを享受できると考えます。